8月3日、長岡の花火を観て来ました。
それ自体が目的というわけではなく、翌日の新潟でのゴルフとのセットに興味がそそられました(笑)。
皆さんご承知の通り、長岡花火は大曲・土浦と並んで日本三大花火の一つです。ただ開催趣旨が他と違い「花火を競う」のではなく、昭和20年8月1日の長岡空襲で亡くなった人々の鎮魂と地域復興を祈念する名のもとに開催されているそうです。恥ずかしながらこのことは現地のアナウンスで知りました。天まで届けとばかりの、いまだかつて観たことのない大きくて素晴らしい花火でした。
ただ鎮魂の為と聞いてから気になったのは花火が上がるときの音と爆発音です。
「ヒュルヒュル~」「ドッカーン」
これは昭和20年大阪大空襲を経験した私の母から生前たびたび聞かされた擬音です。地上から打ち上げられた花火と爆撃機から投下された焼夷弾の風を切り裂く音は、よく似ています(おそらく)。被爆者の方は当時を思い出されるんじゃないかなと。
母は大阪大空襲で自身の両親(私の祖父母)が亡くなった時の様子を幾度も涙ながらに話してくれました。母は勤労奉仕に出掛けていて難を逃れたものの、被爆した祖母は焼けただれて亡くなりトタン板の上で荼毘に付されたこと、しばらくの間一命をとりとめていた祖父の傷口からウジが何匹もでてきて、どれほどつらい思いをしたかなど…。
一方、30余年前に亡くなった父からは戦争の話は一切聞いたことがありません。思い出すのも嫌で話したくなかったのか、単に私が聞かなかったからだけなのか、今となっては知る由もありませんが…。父は大正15年生まれで、陸軍士官学校第60期生。特攻出撃の直前で、終戦を迎えたことは母から聞きました。少尉でした。
長岡から帰京して数日後、自宅でたまたま「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」のビデオを観ました。昭和20年終戦間際の日本にタイムスリップした現代の女子高生百合と特攻隊員の彰との切ない恋の物語でした。特攻隊員の出撃までの生活の一部も垣間見え、オヤジもこんな風だったのかなと…。
そして百合は彰の出撃後には現代に引き戻されるのですが、学校の社会科見学で「特攻資料館」に行き、展示されてあった何通もの手紙の中に彰から百合に宛てた手紙を偶然に見つける。そこには「君のことを愛していた」と百合に対する想いが切々と綴られていた。
私は10余年前、母親との旅行で戦前海軍兵学校のあった広島県江田島に出掛けたことがあり、その資料館にも特攻隊員の写真や親などに宛てた手紙等が展示してありました。蘇ったその時の記憶と感傷が相まって、ビデオを観ながら涙してしまいました。
戦後80年、奇跡的に生命が繋がった両親がいなければ今の私もこの世には存在しないわけで、月並みですが戦争を二度と起こさない・起こさせないと改めて心に誓いました。この原稿は8月15日に書いています。